れですも色々

癌10 悪化

*ここの表記には食事時に向かないものが多いです

手術自体はうまくいったのだろう。
この手の手術で一番関門になるのが小用なのだという。

実際、傷口がすっかりよくなっているのに小用がきちんとできなくて退院できずにいる人も多かった。

私はといえば何と術後3日目くらいには管が取れていた。
少々の不具合はあるが致命的ではなく、その点では本当に幸運だった。

ただ脊髄にはいっているはずの痛み止めが無効だった為に、経口や座薬の痛み止めを多用したせいか、それとも前回の手術のように何かの薬が合わなかったのか、術後の下痢はひどくなっていった。

#婦人科に限らず、外科手術をすると便秘になる人が圧倒的に多く、医者はそれを恐れている。
その点では、私は他の患者のように「歩きなさい」とかいう注意はされなかったが。


消化器は弄らなかったとはいえ一応お腹の中を触っているのだから、それなりの痛さを伴うのは覚悟していたが、腰の骨の割れるような痛さも前回と同じだったし。

本当はもっと長くつかうだろう抗生物質は3日目に担当医の判断で止めていた。

#これも私の白血球が異様に多めというのを頼りにしたのかもしれないし。
子供の頃は採血をする度に「盲腸」ではないのかと疑われるほど多い。
白血病とまでは疑われないが、ぎりぎりの多さだという。

前回と同じく、徹底的な特急検査をしたが。

下痢は止まらず水分を出来るだけ摂るように言われ、ご飯も頑張って食べていたが、とうとうご飯粒がまるまんま出てくるようになってしまった。

5日目くらいから身体もだるくなってきていたし。

手術直後よりぐったりとベッドに横になっている方が多くなっていった。

加えて腰の痛いのもよくならない。

体重はどんどん減り、入院時に43キロだったのが術後1週間で37キロになっていた。

食べてはいるが身になっていないのだろう。

夜中にフランスで行われているW杯は頑張って見ていたが、正直この辺りの精神状態はひどいものだった。

癌は綺麗に取れて手術自体もうまくいっているのに、何故か体調が悪化するという訳の判らなさ。

先生方も次から次へと打つ手に反発するかのような私の身体には迷惑しただろう。

体重が37キロを切った日、担当医が来て小さな点滴を打っていった。
1分後くらいに目にフラッシュのような光がパシパシと走った。

採血は日に何度もしていてもう針の刺さるのは手の甲だけだったが、そんな中肝臓の数値が飛躍的に上がっていると告げられた。
元々は30前後だった何とやらの数値が1週間足らずで200を超えているという。

だるいのはこれもあったのか。

大きな病院なので、当然肝臓専門医もいる。
科は違うがそこに行くようにもいわれた。

入院患者でしかも、赤い伝票を持っていたせいか沢山待っている外来患者を飛ばしてすぐに診てくれたが。

外来患者の方々の方がよほど具合が悪そうだった。
すでに顔や身体の色が変わっている方ばかりだったし。

私はその方々と比べると何で肝臓専門科に用事があるの?という色合い。

肝臓専門医から見るとこんなのは大した事はない部類らしく、経過をみることになった。

腸の検査で判ったのは必要な細菌がなくなっているという事だったし。

そりゃ消化というか吸収しないわ。

体重が36キロ切ったら栄養点滴だなと言われたが、それだけは避けたかったし。

頑張ってスポーツドリンクやカロリーメイトの液体を飲んでいた。

#これのお陰で今はスポドリ苦手。

ヤクルトミルミルやらそういうものも飲んだ。

少なくとも感染症や他の原因による下痢ではないので、食べるものには制限はないと思い込んでいたので・・・

出前で生寿司を取って食べているのを発見された時は医者は何やら叫んでいたが。

だって食べたいのはこれだもん。
ダメって言われてないもん。

と子供のようなへ理屈を言ったりしていた。

母にイカの塩辛を作ってくれるように頼んだのもこの頃。

とにかく食べたいものを食べないとこれはだめになると思っていた。

異様な精神状態のせいで医者に「私は癌で入院しているんじゃなくて下痢で入院してるのかな」と言ってみたりもした。

昼間、仲間とバカ話をしている時には滅法元気だけれど、夜中や明け方、病棟ではない誰もいない1階の喫煙室で一人で泣いていたりしていた。

精神的に少し立ち直ったのはやはり「それでも私はまだ生きている」と少しずつだが思えてきた頃からだろう。

こういう風に書くと申し訳なさで一杯になるけれど、毎日のように死にゆく仲間達はこんなもんじゃあない。

下痢しているくらいで何だよ と。

肝臓の数値は相変わらずよくならなかったけれど、私は元気を取り戻し始めていた。










© Rakuten Group, Inc.